追悼 飯島侑氏

  新たな社会を求め続けて    

 山中 明

       労働運動研究 19972

 

 飯島侑氏がさる一九六年二月二九日正午、急逝された。肺がんで一ヵ月ほど入院した 後だった。生れは二九年二月 七日で、享年六七歳は早すぎる。つい最近まで元気だった姿とその声が想い出され、その急逝が惜しまれてならない。

  戦後五〇余年を経るなかで 一貫して社会変革の未来をめざす運動の側にあり、またそ の先頭に立って活躍された。

敗戦後、軍国主義体制を突き 壊す民主化運動の全国的高揚のなかで、学園の民主化と旧体制打破の運動に自らを投入した。

 氏は海軍兵学校最後の生徒として敗戦を迎えた。江田島で広島の原爆を授業中に体験したと語っていた。侵略戦争の虚妄の正義が打ち砕かれたことを敗戦によって体験したのであろう、旧制水戸高校(現茨城大)に入学して学生運動に参加、教育大学(現筑波大)に進み、文学部自治会委員長として全学連の五〇年反レッド・パージ闘争を遂行した。戦後初の反動攻勢となったレッド・パージは労働運動を始めとして全分野に及んだ。学園での闘争は勝利し、学生運動における反帝平和の歴史的伝統が確立された。

 やがて朝鮮戦争が勃発し、反動攻勢が強まるなかで、国際共産主義運動の誤りが日本を直撃した。学生運動もその例外ではなく、「五一年綱領」の押し付けに対する抵抗が闘い抜かれた。当時、反戦学生同盟は反帝平和の全学連の伝統を守り、その先端を担っていた。全学連第五回大会(5262627)では反戦学生同盟系の代議員が一室に拉致されテロ、リンチを受ける事件」

が起こった。氏は同盟系代議員を指揮して、この暴挙に打ち勝った。六全協後、日共中央はこの事件で正式に自己批判した(『アカハタ』551226)

 氏は学生運動の再建と歴史的伝統の復活を、日共中央の青年学生対策部員として闘った。六〇年反安保闘争の最中、ハガチー米大統領補佐官の来日を、氏は六月一〇日、羽田空港で労働者沸学生デモを組織して迎え打った。ハガチーは、ヘリで脱出し、この事件は六・一五闘争と重なり、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。このことで氏は逮捕され、法廷闘争を闘い抜いた。  やがて国際社会主義陣営の分裂に際しては、眞の社会主 義の確立を求め、その情熱の火は絶えることがなかった。

 氏は津島薫の筆名で活躍し、 『資料戦後学生運動』三一書房、全八巻、一九七〇年)の編集にたずさわり、当時の学生運動を歴史的に位置付けるうえで大きな貢献をされた。また最後まで労働運動研究所の理事として、労働運動の新たな発展に寄与された。
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座談会東京教育大学戦後学生運動史
(Symposium on History of Student Movement of TUE)

(1963年11月4日採録)

 この座談会は、「教育大学新聞」創刊400号を記念して刊行された増刊号(左図参照。B5版98ページ。1964年1月25日発行。「縮刷版」には収録されておりません)の企画として行なわれたものです。現在では一般に閲覧不可能と思われますので、史料的価値に鑑み、同増刊号から再録しました。


学生運動の伝統と革新

日本の学生運動は、安保闘争を経て、一つの屈折点を迎えた。教育大学においてもいままでになかったほどの深刻な分裂状況をみている。学生運動を社会の中でどうとらえるか。学生を社会的な層としてとらえるとき、その特質はどこに求められるのか。状況はそこから運動を考えていかなくてはならないという、根本的な課題を、投げかけている。そこで、この問題を戦後の教育大学学生運動からみる。過去において、運動はどのような状況のもとに成立したか。それは現在の状況のもとでは、どのように継承されるべきなのか、また再検討されるべきなのか。


出席者(略歴は当時のもの)
  海老原治善(元高師副委員長、46年高師、56年教育大教育学科卒)
  飯島  侑(元文学部委員長、56年教育大哲学科卒)
  富田 和男(元文学部委員長、58年教育大東洋史卒)
  森  嶺夫(元文学部委員長、教育大西洋史3年)
  前田 秀男(前文学部副委員長、教育大東洋史2年)
  安東仁兵衛(49年全学連中執、東大)
  穂積 重行(教育大文学部助教授)
司会 東京教育大学新聞会


悲壮な占領軍の圧制下

司会

 はじめに当時の裏話をひとつ・・・。特に教育大学の学生運動の特色というか、歴史的、社会的なかかわり合いから、東大、早稲田などと異なる特徴といったものを、今の立場からお話願いたいと思います。

海老原

 私、昭和20年に高師に入ったわけですが、戦争が激しい事態にあって、学生運動、全学連に結集していった人などは、全体としてニヒルな、アナーキーなものをもってたわけです。戦後になって大島清先生などから日本資本主義発達史、レーニンの帝国主義論を教えてもらったが、戦争にいためつけられた僕たちはそういうものによって、目が開かれるような気がした。その頃、大塚校友会というものがあったわけだが、僕たち社会科学を学んだ者にはあきたりなかったわけで、これを自治会にしていこうとした。で、校友会は解散して自治会が生まれたわけですが、22年は全学連が形成されはじめてきた時期でもあったわけです。

 当時の文理大の学生は何かおとなしく、活動的ではなかったような気がします。運動としては、その頃、高師を卒業すると三年間勤めなければならなかったのですが、義務年限はやめてしまえというような、比較的日常的な事柄に終始していたようです。

 そういう地盤づくりをやってた時期に、武井昭夫君などが全学連一期生として大いに活躍されているのを見て、僕たちも全学連に入ろうではないか、というようなことが、昭和二十三年頃からあったように記憶します。

飯島

 私は新制の一期生ですから、自治会がなく、これを作るために何をやったらよいかということで、入学式の会場で文理大は授業料1200円、我々は3600円、これはどういうわけだ、授業料を払うのをやめようということを始めた。これは大変うけて、一年間ぐらいは皆払わなかった。運動方法も牧歌的だった。学校自体は非常に封建的だった。同時に学生と教授なども今と違って親密だったと思う。学校側との対立もいろいろあったけれども、しごくのんびりしていたものだと思う。

 私がここへ来たのは全学連結成の後なんですが、高等師範の自治会が直接発展した契機をみますと、大学人事問題をめぐっての教授を中心にしての対立があり、また、48年に入ると、大学の地方移譲の問題が起こった。そこへ授業料3倍ということが出てきたから高師は48年はじめから急ピッチに動き始めた。ちょうど学生運動もこの時期に国立大学関係から時々はじまっていた運動と早稲田中心の関東自治連とが合流して、一つの結節点が出来て、それが6月26日のストライキで全学連の結成に向かうという、そういう時期だったと思います。

司会

 当時、自治会というのは、何をやってたんですか。

飯島

 48年に理事会法案、その他で全国的に大きなストライキが起こるわけですが、その中で学生が左翼化して、中心的部分は共産党の影響下にあった。で、科学主義とか経済主義、つまり学生の身の回りをとりあげねばならないということで、黒板だとか窓ガラスとか、学生の要求を引き出すことに夢中だったと思う。実際には運動らしい運動は一つも成功しなかった。

 自治会が何をやったかということですが、授業料三倍値上げ反対で自治会準備会を作った。実際に自治会が出来たのは、1950年1月に文学部、一番早いのは農学部で49年秋10月です。けれども授業料の運動以外に運動はなかった。51年には共産党が分裂してまた学生運動に対立がはじまった。52年には破防法の運動とそれに血のメーデーがあったわけです。

 大学の自治の問題がかなり重要なものになってきた。共産党の方針が自治会の中に徐々に持ち込まれてくるわけですが、大学権力との戦いということが中心であったように思う。極左冒険主義が盛んで、自治会も国際派と主流派が対立してガタガタしてた。だが50年のレッドパージ反対の学生運動の成果は非常に大きかったと思う。大学は学生が守ったという実感があった。

 いずれにしろ50年から運動がガラっと変わったと思う。学内に対する弾圧も官憲が直接手入れもしていましたし、外部でも反戦ビラをまくとすぐ犯罪者扱いになるというふうに非常に陰惨な時期だった。

 とうとうと反動の嵐が起こっていると、今にしてみれば、悲壮な覚悟でレッドパージ反対闘争をやった記憶がある。あの当時は教育大は二派に分かれ、主流、国際派がしのぎを削っていまして、ストライキでも相当主流派の諸君に反対されました。この際歯を食いしばってやってましたが、外でもいつ逮捕されるかわからんし、占領政策違反ということでいつぶち込まれるかもわからん。軍事裁判などという時期で50年からは陰惨な気分があったような気がします。

 52年になりますと、それだけじゃなくて、方針上の問題もあります。それ以前から学校権力問題があって、学内反動勢力を打倒せよという方針も出ていたわけですが、とにかく51年綱領で共産党は暴力革命を志向してたわけで、それを学内に持ち込むとなると、学内の反動勢力を打倒するのも平和的じゃいけないんで、暴力でやるんだと、そういうことを信じ込んでいたんじゃないですか。

富田

 私の記憶の残っているところでは、50年ぐらいからやった運動の中では、青年よ武器をとるな、母よ夫を子を戦場に送るなというスローガンが受け、戦没学生記念会など生まれるわけです。ところが52年になるとそういうスローガンはダメになって、武器をとらなきゃいかんということになる。集会なんか時の権力と対決するということで、全部非合法である、そういう時代であるわけだ。

方針欠く身の回り主義

司会

 僕らの感覚からみると非常に奇妙なのですけど。大衆運動という観点で学生運動をとらえるわけですが、その当時大衆運動というのはどういう風にとらえられていたんですか。

富田

 大変むずかしい質問だけれども、自治会運動は今より大衆的規模だったんじゃないですか。最近はよく知りませんがデモなんていってもえらく数が少ないでしょう。それから、学生大会などといってもあまり成立しないのではないですか。だからその頃は、数からみれば、今よりはるかに大衆的だったといえるんじゃないですか。それを大衆的というならね。

飯島

 52,53年頃は知りませんが、僕のいた単独講和条約の頃までは、大衆的だったというのだろうな。52年の後半、53,4年になってからは自治会というのは機能を停止しています。むしろサークル活動が中心です。それぞれのサークルが同じ部屋に集まって話し合いをしたりした。国民の歴史学とか国民の科学、国民の文学をつくりあげるんだとかいってね。

 サークル活動に力を注いでいたために、自治会には活動家があまり寄ってこない。学生の選挙権の問題が起こってきたりすると、部室へまず来て自治会へ連絡し、それからストライキをやる。自治会は学生の中に権威がなかったしね。それは今と似てるんじゃないですか。むしろサークルに活動的な奴が集まってました。

 穂積先生には申し訳ないが、授業なんかには大分不満があらわれるんです。そうすると他の大学の研究者をサークルが呼んで講座などを開くんです。すると結構人が集まってくるんです。語学の授業なんか大体百二三十人でいっぱいになる。だから経済的な不満だけではなくて、講義がつまらないとか、設備も十分でないとかいう不満は、こういう不満をどう解決するかとなると、さきほどから言われているように、真っ向から権力にこれをぶつける。考えてみると結局要求を充足させるということが運動の主な関心ではなくて、いかにして権力にぶつけて革命的な人間をつくるか、ということが主な関心なんですね。

 その頃の自治会としては、拠りどころとする思想は共産党が宣伝するものであり、国民の義務というようなかたちで綱領を学生の中に浸透させていくことが指導の任務のようでした。

安東

 ポポロ事件については、僕はパージされて中に入れなかったんですけど、あれは本当いったらゼネストものでよね。当時の状況からすれば。その時でもストライキ一つうてなかったんじゃないですか。たしかあの頃は学園事件だけで、第一ポポロ事件、第二ポポロ事件とそれから早稲田事件、愛知大事件と、ばかに警察が学校へ入ってきましたね。教育大も事件起こしたんですね。

 一般の新聞や世論の問題にはなっていても、学生がそれに対して大衆的に闘争する、つまりストライキなどは全然できなかったのではないか。そういう意味では大衆運動は53年頃はなかったと僕は思うのです。教育大の場合、なるほど破防法闘争があったが、それぐらいじゃないですか。あと自治権の問題があった。選挙権の問題も・・・。

飯島

 僕の見た限りでは、53年頃出てきた活動家というのは、つまり私と対立していた人たちなんですが、年代から言うと皆若い人たちです。こちらは四年生、要するに全然違うんですね。つまり私たちの場合、やはり観念でマルクスにたどりついたわけです。そしてコミンフォルム批判などがありまして、戦略戦術とか、つまり理屈がないと動けないんです。53年頃出てきた活動家は、そういう意味では僕に言わせると、箸にも棒にもかからない、何を話してやっても通じない、マルクスも読まないで騒いでいる、そういう感じだったですね。ところが経過を見てみますと、私たちには分からなかったような、私たちには出来なかったような運動がその後に出てきている。

 政治運動という意味では、指導はまるっきりなってないんです。自治会の指導者は学生運動に無知だったというか、それまでの理論を全然継承してないのです。ただ53年頃から、うたごえ運動とかサークル運動が非常に盛んになっていくわけです。悩みとか苦しみを持ちよって解決しようとする。第二の創生期みたいな感じ。私どものころもサークル部室がないというのは年中問題になっていたが、それはスローガンの一つのつけ足しで、私たち自身それを取ろうという気もないし、どうせ予算がないということで取れないのだし、最終的に運動にならんからよせとかでね。研究室を豊富にしろとかの要求としてはあるけれど、実際日常的な場では出てこないんです。

 ところが例えば女子寮が欲しいとかいうので、作ってくれなければ桐花寮を一棟全部あけて、来年からここへ全部入れますというような闘争をしているし、自治会マンも自治会室をよこせということをやっている。自分たちの身につけている民主的権利とか、要求、これを着実にとっていく点で、私たちはむしろ天下国家の方へ向いてやっていたんだが、全く異質な運動がこの間進んでいた。

 もちろん、こういうようなものを集約するような方針もないし、全学連も弱体だった。これは選挙権運動一つとってみてもわかる。これは茨城大学が地裁に提訴する、裁判所に持ち込んだところから、まず運動が始まるわけです。全学連はいちばん後になってから、やむなく動き出してくる。実際に全国ストの方針は出したけれども、最後にストに入れるのは一つもなくて、ついに潰れてしまうという状況・・・。

富田

 あの時、一般から、教育大でストライキをやろうという提案があったんですよ。共産党はその時反対した。極左主義だとか言ってね。それで教育大はやらなかったわけです。全体の雰囲気としては、何かやらなきゃならんだろうということで、大分もみ合ったのだけれども。

全学連九回大会の方針

司会

 五六年に教育大が全学連に加盟し、全学連の九回大会があった。今まで大体僕らの学生運動は、九回大会の路線といったものを原則的な主張としてきたと思うのですが、あの九回大会の路線が出てきた理由というのはどんなことでしょう。

飯島

 そこにいる富田君なんかが、再建しなきゃまずいだろうということでやってた。とにかく、学生運動の方針がほとんど行き詰まってしまって、学生運動らしいものはない。そういう状況で、七回大会だったか、七中委ですね。例の自治会はサービス機関であって、政治運動とか大衆運動とかはそうやるべきじゃない、ということを決めた。窓ガラスがないとか部室がないとかね。しかし、それもあまりうまくいっていない。そういう時に、55年の12月、授業料の問題が起こって、今までの全学連や自治会の幹部の指導法がほとんどなくなってきた。この問題を取り上げなければならないというムードと、行き詰まった方針をなんとか転換しなけりゃならないという課題が結びついて、55年の暮れから56年にかけて授業料値上げ反対の運動がかなり急速に盛り上がってきた。つまり、それで今までの七中委イズム、サービス機関論は間違いで、学生の階層としての要求を取り上げて運動を展開しなければならない、そういう気分が急速に出てくる。

 この間に共産党の内部で喧嘩がある。つまり、今までの火炎ビン闘争、極左冒険主義は誤りであり、学生運動に対する方針も転換しなければならないという議論が、各大学で開始されるわけです。それが学生運動を推進していく上での核になった。ちょうどその時は小選挙区制、教育三法が出た年で、これを学生運動として受けとめねばならぬということで、運動が組まれる。

 東大なんかもやってましたが、教育大は内部の改革が一番進んで、十月になると学生も小選挙区制を憲法改悪の前哨戦であるということで、それぞれのクラス討論もかなりやられた。クラス討論は当時自治会で呼びかけて、まず小選挙区制反対、教育三法反対の決議をやった。文学部の場合90%以上のクラスがクラス討論をしたですね。それからストライキをやろうじゃないかというのも90%以上のクラスで討論されたようですね。で、いよいよストライキを組んだんですが、あの頃、数年間学生のストライキということがなかったので、新聞に載ったですね。載ったというよりは、かなりの演出があって載せたわけですが。

富田

 ストライキの空気が盛り上がってきた時に教授会の方からチェックされたのだが、強硬に学生大会を開き、定足数を優に上回って絶対多数で学生大会の決議をした。学生大会が承認したものであれば、教授会といえども無理に拒否することもできない。処分ということも当然うわさはあったのですが、結局文学部の場合は臨時休講・・・。

飯島

 理学部、教育学部でもつづいて決議し、農学部に自治会がなかったもので、署名をとって強引にしたようですね。

富田

 その時に学連加盟の決議をするわけです。それから全学連中執に教育大学で2,3名出すわけです。そういうことで、本物の学生運動らしくなってきた。決して一部が独走してたわけじゃない。共産党はその時一番大きな役割を果たしたんじゃないか。新聞を見ても、共産党は相当無茶なことも言ってるけれども、やっぱり一番活動的だった。おかげでわれわれが家に帰らなくてもメシは食えるし、一週間くらい籠城しても驚かないという状況だったんです。それで56年の学生運動は、全国的に昂揚してきた。56年秋には砂川闘争。これも今までのように基地闘争が、基地闘争イコール農民の土地取り上げ反対とか、アメリカ帝国主義権力と闘うというのではない。56年の砂川闘争はそういうものだけではなくなって、原爆実験とか水爆実験なんかありましたから、平和問題に対する国民の関心があったことです。核兵器の基地になるということに反対しなければならない、そういうことがかなりの学生の中にも問題意識として浮かび上がってくる。

 そこで自治会としては、現地へ行って測量を実力阻止するということで、最初4、50名が泊まり込んで警官と衝突する。それがテレビ、新聞に載るので学生はぞくぞく来たですね。あの頃ちょうどマンボが流行していて、慶応や専修の学生がマンボズボンで来たです。砂川は一般的に平和の問題に関心があったということと、向こうのやり方があまりひどかったので・・・。おそらくああいう運動では最大の規模だったでしょう。

飯島

 53年くらいで状況が変わったんじゃないですか。52年の講和発効でともあれ占領という規制がなくなったわけで、占領軍政策違反ということで捕まったものも釈放された。それである程度の民主的というのか、明るい気風がこの時期に出てきた。54年末から、55年にかけては、世の中の状況はだいぶかわったんじゃないですか。

 政治的に言えば雪どけでしょう。経済的には神武景気に入ってゆく。学校の施設などもずいぶん改善されてきている。そうするとそれまでの悩みを話し合ってゆくサークルというのでは持ちきれなくなってくる。当時どこにもあった互助会というのがまず最初にくずれてゆくし、サークルも大分変わってきた。端的に言えば国民の科学運動とか国民の歴史学運動は破産してしまうわけです。そうすると実際のサークルは、アカデミックになっていくか、つぶれてしまうかで、サークル運動自身が55年につぶれてしまう。

 もう一つは、55年くらいになると、学生、教授にもかなり影響力を持っていた共産党が完全にすり切れちゃって動きがとれない。そこで活動家をどんどん引き抜いてゆということが重なり合ってしまう。

 私は55年大学に帰ってきた時というのは惨憺たるものだった。学外に出ていて全然講義に出ていなかった連中が、今度は勉強しろというわけです。我々の青春を返せとか、みんなで泣いたりわめいたり、大分もめたわけです。この期間2,3ヶ月あったでしょう。自治会といえば全学連が今まで勝手な方針を作って引き回してきた。これだから学生運動はうまく行かなかったんだ。政治的運動は誤りであり、学生のいろんな身近な問題を取りあげて世話をするのが自治会だし、そういう学生の要求の先頭に立って活動していくのが共産党の任務だという七中委の路線にのっとっていたと思う。

 56年、敵はとにかく教育三法で攻撃をかけているし、小選挙区制でも同じだし、アメリカは水爆実験をしている。私たちはストライキをやるという方針を出したが、共産党はストライキに一番反対したわけです。

 当時、民主青年団というのがありまして、今の民青ですか、共産党が決めてもまだ民主青年団は「共産党は間違っている」と決議したりしている。そういうことで学生大会にもっていって学生諸君が支持するまでは、共産党の連中は誰一人ストライキをやれるとか、やろうという元気はなかったようですね。

司会

 砂川闘争のストライキは教育大が真っ先に行ってそれについで全国にバタバタ起こってきたということだそうですね。

飯島

 それには裏話的なところがあるんです。教育大では5月16日にストライキをしたわけです。私たち、いろいろ打ち合わせた時に、ここで学生運動を再建しないかぎり再建できない。そのためには教育大が全国の突破口にならなければだめだろう、ということで細胞の諸君を集めたわけです。が、そこではストライキは圧倒的に反対されたわけです。そこでストライキを含むあらゆる形態でということで妥協し、とにかく学部の学生大会で是が非でもストライキを通さなければならない、これを全国に広げなければならない、というので新聞記者も呼んでおいてやったわけですが、途中から学生諸君の支持が強くなって確信を持ったんじゃなかったかと思う。

穂積

 今までの話をうかがっているとどうも共産党が学生運動をしてきたみたいな感じを持つわけだが、それは確かなことだが・・・。それに関連して、ちょうどその学生大会の時、私はそれを傍聴していましてね。大変もめて何か面白かったですね。最後に言われたように学生諸君の働きによって確信をもったということはまさに本音だと思います。

全学連 主流と反主流

司会

 だいたい56年までの様子で、今の学生運動の原型が出てくる過程がわかったわけだけれども、主流派と反主流派の分裂の原因、それぞれの方針などについて・・・。

富田

 学連の方針の転換というのは、58年頃です。57年はクリスマス島核実験の反対運動が盛り上がり、その時教大はストライキをしてます。57年にストロンチウム90の被害が恐ろしいということに対して、それは帝国主義をやっつけるのに必要なんだという議論があった。57年後半から学生運動のなかでは、日本の独占資本は復活した、アメリカ帝国主義と闘うだけでは闘いにならん、日本の独占資本国家権力と闘わねばならないという議論があって、それと平和運動が交錯して混乱する。

 独占が復活した、したがって反独占闘争というのが学生運動の直面しなければならない課題である。そのあたりから平和運動軽視論が出てきて、58年には共産党のなかでも、平和運動第一義か、反独占−階級闘争か、でもめる。

 全学連では、反独占闘争の方が平和運動より重要であるとしていた。しかし教大は反独占闘争だけに課題をしぼれない、平和運動もいぜんとして重要であるということで議論があり、58年の原水禁大会に流れ込む。58年には勤評闘争が盛り上がって、ますます日本独占資本と闘わねばならぬということで、ここらが一つの転換点になったのではないでしょうか。

司会

 自治会の方で分裂が起こったのは安保闘争が始まってからですか。

富田

 教大の場合、あまりなかった。ずっ後になってからです。ここ2,3年というところじゃないですか。教大の場合、一党独裁なんです。よそがかなり分裂している時もね。

穂積

 もっとはっきり言うと、分裂状況は去年頃からですね。

飯島

 実際にその後の運動を見たり聞いたりしているのですが、学生諸君のなかにある平和とか民主主義とかいう気風は、56,7年ぐらいは非常に強かったようですね。クリスマス島で実験をやるときのデモなどはすごい規模のデモがあった。安保の規模はさらにそれを上回るものだったのですが、全学連というような組織が要請されたことも含めて、この点から、一般の学生諸君のもっている要求に食い違いが出てきているのではないかと思うんです。

 それは例えば一つの系列からいくと平和運動を中心にして帝国主義者と対決するんだというような方針として出てくるんですね。それは同時に平和運動は権力闘争なんだと。闘争の形態も激しくなくてはならないということで、ストライキを激発したり、警官隊と衝突したりということが平和運動を進める部分から起こってくるんです。それが平和運動とは帝国主義と対決するということで運動を引きずったわけです。

 しかし運動を見ていると学生の持つ平和への要求とはその形であったのではないと思うのです。そういった運動のやり方に対して反対する傾向が出てきたわけですね。というのは広範な学生を基礎にしてやる運動はジグザグデモなんかじゃなくてパレードをやったり、風船を持ったりしてやってゆくというわけで。学生諸君の要求とはこのような運動で、この運動をとにかく独占資本に向けると彼らは考えるわけです。

 ところが彼らは砂川闘争を誤った闘争として間違った評価を出してくる。その結果、漸次権力と闘うには平和ではだめだというようになる。そこで革命闘争−社会主義建設運動をしなければならぬというようになってゆく。まあ、一面的には正しいのですが、その時点からすぐに学生運動は独占打倒、社会主義をめざす闘争であるべきだとなるわけです。これがだいたい安保寸前の状況だと思うわけです。その後いろいろと分化していったようですが、教育大は中間あたりにあったんじゃないかとみているんです。要するに平和と民主主義をめざすというワク内で進んできたのではないかと思っているのです。

教育闘争と教育大の特質

司会

 そのころから今の学生運動をみても教育の闘争が浮き上がってくるのではないか。学生運動のなかの教育闘争の問題について、海老原さん何か。

海老原

 教育闘争の問題についてはあの時の暗い状況の中で、教師全体が勤評闘争ということで民主主義をその後の安保へ結びつけたのではないかと思う。その点で教師に対する攻撃が教育課程の改悪、人材開発計画というように集中された。それが安保闘争後、復活した資本主義に見合って人材を計画的に養成する問題が出てきた時に、今日の問題の発端があるのです。

 そして60年から3年間所得倍増計画をやり、最近では開放体制という全面的な帝国主義分割競争の中に巻き込まれていくという危機意識が、より能力主義教育政策といいますか、国民の同世代のなかの3%〜5%という戦略的ハイタレント、マンパワーというふうなものをどのように養成するかに関連して国民教育制度全体を変えてしまうわけです。例えば幼稚園の義務化、能開研テストです。その点で日本資本主義自体の維持発展のためにどうやってマンパワーを獲得するかという要求が一つ。

 また大学生のなかに生活民主主義というか、小市民的安定ムードがあると思うのですが、そういうムードでは押し切れなくなってきているというか、その意味での資本主義自身の中に政治的危機意識がかなり強くあって経済的にも政治的にも教育に対する全面的な攻撃が要請されているのですね。そのような意味で進行しつつある教育政策全体が教育問題に対して関心をもたらすことにもなっていると思います。

司会

 東大から見た教育大の学生運動の特質はどうでしょう。

安東

 先ほどから考えていたのですが、教育大の学生運動のカラーみたいなものありますかね・・・。

穂積

 おしなべて貧乏だということは言えませんか。むろん富裕な人もいるけれども、とびきり豊かな人もいない。平均してみると・・・。

富田

 地方から来る人が多いですね。それから冒険主義者はあまりいないのだけれどね。小市民といっていいかどうか、とにかくまじめですね。まじめな運動をやればついてくるのですね。

安東

 日本の学生運動ではどういうわけか教育闘争というのがおざなりだ。これだけ日教組の闘争なり国民の教育的関心がありながら、個々には確かに闘われてきている。第一最初から授業料等の問題であるし、大学法の問題ですね。そういう教育闘争で事実上のアタックなり、アプローチはあるけれど、その教育闘争について日教組と同じ力量は持てないにしても、そこに学生運動というものがもっと形成されて良かったのではないか。そして教育大とか、名前からすぐこうなるのかもしれないが、学芸大とかの学生運動がたえずそういう問題を取りあげるセンターとしてあるべきだと思います。そういう意味の伝統というものが果たしてどれだけあったか、これはこれからの運動として教育大の問題点なのではないか。

学生層の特徴的基盤

司会

 森君や前田君、今までのところから感想をお聞きしたいのですが。

 僕らが学生運動を始めたのは安保以後で、伝統的学生運動が崩壊する時期ですね。安保闘争を一つの転機として主流派であれ、反主流であれ、全部崩壊してゆく。そういう形で政治勢力が全部分裂してゆくという中で、僕らは一つの転換期と言えるのではないか。今までも学生運動は層としての運動と言われてきたが、学生の社会的条件、位置から出発した層全体としての運動というよりもむしろ一般政治課題を左翼学生が指導してきたといった状況だった。それが現在では学生の社会的条件による運動へと変えていこうとする転換期にあるのではないかと思うのです。

 科学技術問題が出てきて教育の面でも新しい科学、技術を担う労働力、労働者をどう養成してゆくかという問題が大きくなってきた。そういう中で学生層の社会的地位が変化してきているのに、学生運動が組織論の転換のみで、学生運動自体、運動の体質を変えるまで発展してこなかったように思う。最近ようやく層としての学生運動が形成される可能性が出てきたと思う。特に大学の再編成が科学技術問題とからんで迫られているその点でも学生運動はどうしても解決しなければならぬ転換点にあるのではないか。

富田

 それについて。学生が自己を相対化していって階層の変化、状況の変化を客観的にながめるのはいいが、我々の世代から見た場合、果たして今の運動なり、政治的、社会的問題に対する反応の仕方、行動の仕方というものは肯定できるものだけかというと僕は疑問だ。例えば原子力潜水艦の寄港問題に対し、学術会議の声明に対する学生の反応ぶりは鈍かった。そこで問題なのは教育大での軍縮ゼミがすべてではない。現実に提起されている政治的、社会的諸問題に対し、学生が一定の社会的発言を行ない、それを通じてデモンストレーションをするのは必要である。その時、世代が変わったというのみで弁解してしまうというように諸君自身が自らを客観化してながめるのでは、結果的には政治的アパシー状況を肯定するような方向に陥り、危険性を含んでいる。そうすることは自己を正当化し、微温的運動の中に身を沈めてしまうことになるのであって、伝統的学生運動はそこで断絶する危険性を含んでいると思う。

司会

 現代の分裂状況はいろいろな運動の阻害条件になっている。分裂が起こったとたんに反対派の方からは猛烈な攻撃を受けて大衆運動自体がやりにくくなり、大衆団体が割れていった。また、教育大が学生運動の中でポイントを握っていたため、巻き返しが激しくなり、大衆運動の原則はつぶされた。こうして教育大の学生運動の姿が壊れていった。学生運動を建て直すためには今までの感覚とは離れたものでなければならない。これを解決する過程では、富田さんと森君の間の学生層のとらえ方の意見不一致を解明せねばならぬと思う。このような状況をふまえた上でのフリーな発言を求めます。

 いわゆる「伝動ベルト論」といいますか、大衆団体の中に特定の政党が手段として伝動のベルトをくっつけてその政治路線を大衆団体におろし、大衆運動をおこす。政党が強固である時、または他に政治潮流がない時は分裂は起こらないが、その政党に分裂が起こった時、運動がそれを克服し得なかったという点から組織論の弱点を含んでいたといえるのではないか。

 現在学生が客観的にはどのような社会情勢の中におかれているのか、それが国際的な科学技術の発展の中で、どのような変化を示すのか、というようなことを考えて運動を盛り上げていかねばならない。今までの学生運動のやり方では対処できぬ状況が出ている。現に九回大会の路線で行なわれてきた学生運動はいたるところで崩壊している。

司会

 学生層の存在はどこに特徴的基盤をおくのか、そこに論点の食い違いが出ていると思うのですが、安東さんいかがですか。

安東

 森君が時代の転換、安保後、時代は変わったんだ、したがって世代も変わり運動の主体、発想も変わったといわれた。これは確かに当たり前のことなんで、いつの時代でも前の時代を否定しない。あるいは時代の新しさなりを強調しない世代は成長の可能性をもたない。しかしそういう世代の相違や時代の転換の中から正しいエネルギーを出していくことが必要なんだ。なるほど運動スタイルとか発想法、ルールとか文書とかいったものに世代的カラーという屈折があると思うが、先ほど富田君の言われたいわば中心的な問題というのは、これははずせないのじゃないか。昔風を吹かすわけではないですが、やはり時代と対話するというか、学生が時代とともに行動する、これは変わらないのじゃないかと思う。つまりもっとずばりと言えば、全国的な段階における国民的政治的関心事に対して、学生層が反応してゆく。確かに時代的に、学生の社会的比重というものは変化するとおもいますけれども・・・。

司会

 森君にしても国民的関心事に対しての対処はあるんではないか。しかし、対処の方法、対処する学生の頭のもって行き方、もっとも有効な対処の仕方、そこらでおそらく意見の不一致があると思う。森君いかがですか。

 僕は世代の相違を別に言ったわけではないんです。一般的な世代の相違は運動の中ではそれほど重要視されないと思う。で、僕が言いたかったのは、例えば教育闘争ですが、今までの運動では国会の立法化の段階でデモやストライキをやってこれをつぶすということだった。しかし現在では資本の側の攻勢はより巧妙な形でしくまれていて、従来のやり方ではまったく対処できない。運動そのものに新しい質を見出して行かなければならないと思うのです。

 今言われた国民的関心事にしても、学生層の把握の仕方から問題を立てて行かねばならない。顕著な例として原子力潜水艦の問題にしても、科学者の対応の仕方には注目すべきものがある。つまり、科学者という問題から入っている。そういうことが学生の場合、あまり考えられていなかったのではないか。

司会

 科学技術問題について一言したい。技術革新ということが盛んに言われていますが、これは単なる合理化の問題ではなく、もっと社会的に質の変化を伴っています。一つは生産の社会化であり、もう一つは労働内容の変化に伴う労働者層の質的変化ということです。その過程で一般にホワイトカラー、知識人とかの概念が変わってくるのではないか。教育の面では明らかにそれに見合った転換が始まっている。また、学生層をとらえるとき、我々はそれが将来をになうべき価値を生む者であるということを前提にしなければならないのであり、したがって、現在の技術革新の内容をつかみ、学生層のもたねばならぬ認識とはなにか、教育に対する要求はどう変わってこなければならないかという事を考えなければならない。

飯島

 私は学生諸君の中にはやはり現在の社会に満足できない、これを改革しなきゃならんという気持ちはあると思う。ただ太平ムードというのがあるから、なかなか反応しないけれども。しかし、そういう資本の側の攻撃の事実を学生諸君に知らせて闘う方向を示すという以外、道はないのではないか。先ほど言われたように、要するに大学制度はいかにあるべきか。そういったものをこちらの側から打ち出していって向こうの土俵に乗り込んでゆく。これは今までの、何か来るとすぐ反対というような形の学生運動には見られなかったし、大変エネルギーのいる運動じゃないかと思うんです。

 で、そのエネルギーが根本的にはあるということに関しては疑わないし、同時にそれを進める方向での対応がなきゃならん。そういう意味では、今、問題を出されている諸君の言うことは分かる気がする。ただそれが、今までの運動とは全く無関係な、むしろ正反対のものを打ち出してゆくんだということだとちょっと意見が違うのですが。

富田

 平和運動は戦争をいかに否定するかという問題意識に立たざるをえない。その場合には、現在の科学技術が戦争にどれだけ悪用されているかというプロセスを、あるいは現在の戦争のメカニズムが作られてくる過程を、学生全般に認識させる、教育する、そういうことが学生運動ではない、と僕は思うんです。そういう努力は一面にあっていいけれども、問題はそういう矛盾が現に作り出されている人類の生存を脅かしている、ヒューマニティが脅かされている、そういう現実の矛盾と学生はどう対決していくか、この問題を第一義的に考えなければいかんわけです。

 認識の統一は、これは先のことですよ。軍縮問題について、プロセスがどうあるべきかということについての認識を統一させる過程というのは相当研究活動もいるわけです。学生の段階では、学生諸君が軍縮のプロセスを解明するということはほとんど不可能なのではないかと思うんです。これは専門家なんかが必要であるし、そういうことをめざす運動が一方にあってよいけれども、そういう認識の統一に最大の目標を置いた場合、現在の危機には対処できないような状態になる可能性は十分にある。

 そこで、そのことをまず強調しておきたいということが一つと、さきほどもちょっと問題になっていたように、世代の相違は大したことはないというふうに諸君が言うのは解せない。戦争体験、第二次大戦まではたしかに戦争体験をもっていた。我々だったら少年時代に戦争をすごした。54年のビキニ事件の体験をもっている諸君もいる。しかし、それ以上にメカニズム化された戦争の体験であるキューバの体験を経た今の世代は、キューバの危機になぜ古い世代が対処しなかったかを抗議する権利がある。しかしその権利を諸君はすでに捨ててしまっているのではないかと思うのです。

 若い世代としての自己主張をするのなら、こういう最大の危機に対して大人たちに抗議し、大人たちの鈍感をついていく、こういう情熱を持たなければ、古い世代を乗り越えていくことはできない。僕はこのことが一番大事だと思うんです。

運動と研究活動

穂積

 最初の森君の発言を聞いての理解が、あとからの話を聞いて大分違っていたのではないかなと思ったりしてるんです。そこで最初の理解を言ってみたいと思います。それは森君は非常に単純素朴な問題を出したのではないかということです。つまり学生運動の責任者として、組織とその技術ということに行き当たり苦しむ。それを原則に照らして考えてみた場合に、さらにその苦しみは増えていく。そしてその手がかりを組織の技術という意味で発言したのではないかと思うんです。

 つまり私の考えたことをそのまま言えばこういうことになります。かつての学生運動の中では、共産党の指導性が良かれ悪しかれ相当大きな比重をもっていた。しかし今、共産党の、あるいはその一部セクトの組織技術を学生の中に持ち込もうとしても無理だ。その意味では、今まで発言された方は共産党の活動と学生の活動を結びつけた形で一定の成果を収めてこられたが、森君の場合は、自分たちの置かれた条件の中では新しい組織論でなければ組織技術はできないのだと考え、今までの学生運動家に対して、これで一体やっていけるのかと危惧の念を抱いたのではないかという風な受け取り方を僕はしたのです。で、それに対して大局的な議論が展開されて、若干その点で食い違いがあったのではないかと感じます。

 今日の話で、自分の記憶がいかにいいかげんなものであるかと歴史家として思い知らされたわけですが、でもやはり戦後の教育大を私なりに整理をしなければならないと思います。

 私が高師に来たのは22年で、その時に感じたのはなんて田舎なんだろうという事です。本郷東大の研究室からこちらに来たので、講義でも、東大の研究室の調子で、マルクスはとか、資本論には等と言ったところ、左翼教授来るということで大いに評価されてあわてたことがありました。それから当時の大塚に欠けたるものは三つありと言いまして、気の利いたのみ屋がない、喫茶店がない、古本屋がないということで、それも田舎だということになるわけです。

 教育大の発足したのは49年ですが、高師の残党が残っていたわけです。それが三年ぐらい続きました。二重構造でずっときたので教師の中にもだんだん教育大の方に移っていくのもいるし、まだ高師に付き添っているのもいる。学生の方にも大学生のかっこうでさっそうと歩いているのが増えていくが、それに比べて高師は何となく日陰者みたいな気持ちで、俺は天然記念物だというわけです。私もその高師に最後までお付き合いした者ですから、その天然記念物的学生と肩寄せ合わせ、その中で学生を身近に知るようになりました。アルバイトといいましても、家庭教師などは聞いたことがなく、私の知っている限りではトラックの上塗りとか、工場の夜勤とか、学校の夜警とかが多かった。酒飲むと言ったってまず粕取り焼酎でしょう。

 51年頃父が死にまして、生活を自分で背負っていかなければならないという事を身にしみて感じたのです。こういうことの中で、学生生活というものを親身になって考える気持ちが新しく芽生えてきた。ただそういうことだけでなく、「平和」ということや女房、子供をどうしてくれるんだということを考えてても、一度自分の戦争に反対する努力をふり返らなければならんという気持ちは、つきつけられているという感じがしました。

 その意味で、51,2年頃は大きな転換点であったと思います。ところがその頃の学生運動は、さきほどのように英雄時代でありまして変なのばかりなんです。年も私と同じのがいましてね。またそれが、草刈り一揆(注)とか、山村工作隊とかでどうもつき合いきれない。ですから私は学生生活という面では関心が芽生えていながら、そういうものにはついていけず、大学もそういう動きを真正面から受けとめていくという形はなかったと思います。

 そういう態勢が出来たのは53,4年頃ではないでしょうか。反対闘争を通じて文学部教授会をしっかりおさえていかなければならない、ということで。その段階での大学の民主化を経て、そこで学生の問題は考えていかねばならんということになりました。そしてその態勢のなかで、私が学生生活にふれて積極的に入ってきたのが、寄宿舎委員のメンバーになった56年です。それから4,5年寄宿舎を手がけて、学生大会や生協までタッチしてるわけです。

 そういう中で、おしなべて貧しいということからいろいろな政治的イデオロギー的な運動が、決して宙に浮いた観念的なものでなく、ギリギリの切迫した要求から出ているということを身にしみて感じだし、そこからまず学生生活、特に経済生活、住宅問題から本学の学生運動の一つの姿をフォローしてきたのです。

 今、私には非常に分からないんですが、安保闘争前まで、学生運動の分裂といっても平面図で理解できた。今では立体図でも理解できるかどうか。ただ、学生が非常な関心を持っていることにかわりはないんで、それをどのような経過でもってどういう方法でぶつけたらものになるかという点に自信のなさをもっている。さしあたっては自治会の組織にのっけていけばいいのではないかと思うんです。

 それから、学生諸君の学生運動、特に平和とか民主主義に対するアプローチとしては、一つの重要な側面として、自分の専攻学科を媒介としていくことがどうしても必要なのではないかと思います。これは学科によりやりにくいでしょうが、一人一人が自分の専攻の中で問題にせまる事でないと、空回りになるんではないかと思います。

 自分の行動をする場合でも、研究活動は研究活動、行動と割り切っていくのが一番楽なわけです。ある程度まではそれで通るが、それで通らぬ所がどこかに出てくるんで、僕も今困っているんです。学生諸君もこの点で困ってもらったらいいじゃないでしょうか。だから端的に言えば、自治会の諸君も、講義はつまらんでしょうがもっと出てほしいんで、そこでゼミの本を読む中でこういった問題を出したら、もっと実のある授業が出来るのではないかと思います。


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  (注)草刈りガマ事件

 講和発効、メーデー、ポポロ事件、そして破防法、1952年は正に嵐のふきすさぶ1年であった。これに対処する学生運動は、その伝統を見失って、極左冒険主義の方向に急旋回した。学園でも、「学校権力」を打倒するための闘いがくまれた。こんな時、本学に「草刈りガマ」事件が起こった。生活に困った学生のために、自治会は大学に対し、校内除草アルバイトを要求し、賃金交渉が行なわれていた。単価交渉が未解決のままで、9月21日、自治会は草刈りを強行。農学部から鍬鎌などをもってきた学生数十名は、校内除草のあと、付高そばの会計課長宅にはいりこみ、一律500円を支給するよう要求した。この際、電話線切断などの暴力行為があったという。23日も同様に約100名が草刈りアルバイト。大学側も結局賃金予算48,300円を計上せざるをえなかった。なお、この年の夏は、破防法反対闘争などで学園が大荒れに荒れたこともあって、大学は10月10日、「全学学生に告げる」という異例の勧告を行った。




東京教育大学新聞会OB会